ジャック・ヴァシェ

1895-1919

1949年、アンドレ・ブルトンはジャック・ヴァシェを自分が「世界で一番愛した」人物として思い起こす。

しかしながら、シュルレアリスムの創始者が語るヴァシェは30年前にすでに死去している。ヴァシェは1895年にロリアンで生まれた。父親はイギリスの血を引く職業軍人だった。ジャックはインドシナで幼少期の一部を過ごした。1900年代の半ばに本土に戻った彼は、ロリアンのサン・ルイ中学で学業を続けた。1910年に父親がセネガル勤務になると、ジャックはナントのギバル叔母夫妻のもとに送られた。
まずナントのエクステルナ・デ・ザンファンの生徒になるが、1911年に放校になる。その後、グラン・リセ、現在のリセ・クレマンソーに入った。

彼はそこでジャン・ベルメール(すでにジャン・サルマンの筆名を使っている)、ピエール・ビセリエ(ヴァシェは1910年から1911年に通ってた美術学校で、おそらくすでに彼と知り合っていただろう)、ウジェーヌ・ユブレ、そして他の数名と出会った。彼らはすぐに高校生の集団「サールたち」を形成した。
Mobirise

ピエール・ビセリエ

1896-1930
個人蔵

Mobirise

ウジェーヌ・ユブレ

1896-1916

ナント市立図書館蔵, ms 3448

Mobirise

ジャン・ベルメール

1897-1978
(ジャン・サルマン)

個人蔵

Mobirise

ジャック・ヴァシェ

1895-1919

個人蔵

彼らは皆、詩と文学と芝居に熱中し、執筆していた。1913年初め、サルマンは「コメディア・イリュストレ」誌のナント特派員を務めさえした。ビセリエとヴァシェは絵も描いた。グララン広場からパサージュ・ポムレを経て植物園に至るまで、サールたちはナントのブルジョワジーを恐れさせた。彼らはサールたち、ミームたちの支配する逆転した社会的ヒエラルキーを考案した。

Ils ont leurs conventions, leur code, leurs accommodements personnels avec la langue française. Leur sens des valeurs et des hiérarchies. Ainsi, ils ont établi un classement social. En haut, les « Mîmes ». Pourquoi ? Le mot leur plaît. Il évoque la « mystique grandeur du silence qui s’exprime », comme l’a définie Jacques Bouvier [alias Vaché]. Au-dessous des « Mîmes », les « Sârs », hommage à Péladan, aux ésotériques « Rose Croix », à tout ce qu’on voudra, qu’ils ne cherchent pas à préciser. Au-dessous : les hommes (homo vulgaris).

Au-dessous des hommes, les sous-hommes, au-dessous des sous-hommes, les « 
surhommes » ; plus en bas, en descendant l’échelle, le sous-off, et, au dernier échelon,

enfoncés dans la honte et l’ignominie – autre idée délicate de Bouvier – les « générals ». On ne daigne pas utiliser le pluriel convenu. Un général, des générals. […] Seul Bouvier s’obstine à demander si l’on ne pourrait pas trouver pour son père colonel une désignation – au-dessous de général – qui ferait de ce petit homme nerveux, autoritaire, très décoré et très vieilli, et très las sans doute, quelque chose comme un « intouchable ».

Jean Sarment, Cavalcadour, 1977.


サルマンはまた、彼の最初の小説『ナントのジャン・ジャック』の中で青春の日々を思い起こしている。

グループの中で、ヴァシェはワイルドに影響を受けたイギリスかぶれのダンディである。おそらく彼はすでにアルフレッド・ジャリを読んでいる。 1913年初め、サールたちは 「さあ行こう、悪集団よ」 と題する最初の雑誌を作った。タイトルはヴェルレーヌの詩から取られた。ヴァシェは二つの詩を提供したが、この雑誌にはクロポトキンから影響を受けたピエール・リヴォーの「アナーキー」と題する記事が掲載されていた。それは高校で事件となり、サン・シールの生徒と哲学級の生徒との抗争を引き起こし、ナント及び国内の新聞で繰り返し取り上げられ、論争され、リヴォーとサルマンが退学になり、雑誌は破棄された。

サールたちの雑誌「さあ行こう、悪集団よ!」 (1913年2月)

の一頁目 ナント市立図書館蔵 ms 3461

「さあ行こう、悪集団よ」誌に掲載されたヴァシェの散文詩「霞んで静かに…」

ナント市立図書館蔵 ms 3569

1913年2月1日「エコー・ド・パリ」誌掲載、ナント高校事件についての記事「シャプタルでのように」

ガリカ参照のこと

しかしサールたちは自分たちの文学的希求を放棄しなかった。彼らは「野鴨」と題する第二の雑誌を作り、1913年末から1914年半ばにかけて4号まで出した。ヴァシェはこの雑誌に数篇の詩と社会を風刺するコント「ジル」 、さらに定期的に書評を載せた。彼はとりわけガストン・ド・パヴロウスキーの『四次元の国への旅』を取り上げた。.

Les jeunes poètes expérimentent enfin une écriture collective, dont quelques rares manuscrits ont été conservés par Jean Sarment. Dans Cavalcadour, ce dernier raconte une séance au cours de laquelle les Sârs s'adonnent à cette « poésie unanime » :

Chacun ajoutera un vers ; ou deux, si le coup de l’inspiration l’exige.

HARBONNE [alias Hublet] – J’avais un cœur, j’avais une âme

BOUVIER [alias Vaché] – Écoutez mon épithalame.

HARBONNE – Mon âme s’en est allée […] parmi les vents alizées

PATRICE [alias Sarment] – J’ai cherché mon âme partout

BOUVIER – où m’ont mené les bateaux mouches…

BILLENJEU [alias Bissérié] - Chez les 

Esquimaux et les Kalmouks.

PATRICE – Dans mon habit à bouton d’or.

BILLENJEU – Je suis allé au pôle rose

BOUVIER – le pôle rose du Pôle Nord

HARBONNE – J’ai bu la rosée du miroir des soirs…

BOUVIER – Et puis l’encens de l’encensoir…

Et cela se prolonge, ad libitum, jusqu’à ce qu’on ait envie de passer à autre chose.

Jean Sarment, Cavalcadour, 1977.

Mobirise

1914年8月に世界大戦が勃発し、20歳くらいだったサールたちは別れを余儀なくされた。サルマンだけは徴兵検査で不合格となり、戦場に行かなかった。彼は1915年からパリで演劇活動を始める。ビセリエ、ユブレ、ヴァシェは徴兵された。ユブレは1916年10月27日に砲弾の破片を受けて致命傷を負い、戦場から戻らなかった。1914年に医学生だったビセリエは戦時中は看護兵であり、終戦後に医者となったが、同時にモルヒネ中毒患者でもあった。ビセリエは1930年に死亡したが状況は不明である。










ジャン・サルマン、ピエール・ビセリエ、ジャック・ヴァシェ
ナント市立図書館蔵 ms 3448/10

ヴァシェは1914年12月に動員され、1915年夏の初めまでブレストで新兵教育を受けた。性病のため数か月間入院し、錨泊島に隔離された。 1915年6月に第64歩兵連隊としてソンム県のアルべール地区の前線に到着。その時期からすでに、イギリスかぶれのヴァシェは英国軍付通訳になりたい願っていた。大隊の引継ぎの際、彼は数週間英国軍付通訳になるが、擲弾兵としての当初の配属に戻る。1915年末から1916年初頭の入院の後、彼は通訳として前線に復帰し、1918年春までその軍職にあった。 

通訳ヴァシェ、ナントにて

個人蔵

通訳ヴァシェ、ナントにて  

(1917年7月、デリアン家にて)

ナント市立図書館蔵 (旧アンドレ・ブルトン・コレクション)

通訳ヴァシェ、ナントにて

(1917年7月、デリアン家にて)

ナント市立図書館蔵, ms 3455

1916年7月から11月

ヴァシェはイギリス軍第60輜重隊に配属。

1916年9月から11月

ヴァシェはロンドン連隊2/13大隊(ケンジントン)に配属。.

1916年11月から12月

ヴァシェはオーストラリア帝国軍第34大隊のオーストラリア人たちのもとに配属。

1917年1月から9月

ヴァシェは再びイギリス人たちのもとに配属。近衛ヨークシャ―軽歩兵連隊第2/5大隊に帰属。この間、ヴァシェはとりわけ1917年5月初頭に第2次ブルクールの戦いに参加した。二日間の脱走は、軍当局に対する彼の態度が次第に反抗的になっていく証拠である。この脱走により、1917年9月初頭の数日間、彼は営倉に入れられ、その後、配属変更となった。

1917年9月から12月

ヴァシェはウエスト・ヨークシャー連隊第2/6大隊に配属。

1918年1月から4月

ヴァシェはイギリス軍に配属されたまま、今度は第五軍団との連絡の役割を果たすフランス人将校付となる。

1918年4月

ブルトン宛の一通の手紙から、ヴァシェが一時的にアメリカ軍に配属されたことが分かる。

1918年5月から7月

ヴァシェはイギリス軍第52師団第157旅団の通訳となる。6月26日から7月27日まで、理由は不明だがヴァシェは営倉に入れられ、さらにブーローニュ・シュル・メールのイギリス軍基地から追放される。

1918年8月から11月

8月末、ヴァシェはフランス軍に戻り、輜重隊第14中隊に配属される。彼は第178戦地郵便番号区、すなわちシャトー・ティエリーにある第6司令部区域の郵便配達下士官の任務を担う。ベルギー解放に参加した時、彼はこの職務にあった。有名な最後の手紙はこの地で書かれた。

1915年、前線に着いた数か月後、擲弾兵ヴァシェが所属していた第64歩兵連隊は、ジョフル将軍の指示によるシャンパーニュ地方の第2攻撃に参加した。9月26日、ヴァシェはタウールで出撃しようとしていた。その時、自分の榴弾入りのカバンが爆発し、彼は両足を負傷した。彼はヌヴェールへ運ばれ、最初の外科手術を受ける。彼の父親は、叔母のギバルが看護師をしているナントのボカージュ通り103ビスの臨時病院で彼が静養できるように取り計らった。 アンスニに行った際にX線撮影をし、彼は2回目の手術を受けることとなった。手術は1915年12月7日に行われた。

ジャック・ヴァシェ、ナントの病院にて、1915年12月

個人蔵
横にいる人物たちについては不明。

ジャック・ヴァシェ、ナントの病院にて(1916年3月末)

おそらくは静養期の終わり頃

個人像
横にいる人物たちについては不明。

献身的な看護婦へ

このヴァシェの絵は、おそらくボカージュ通り103ビスの臨時病院で看護婦をしていた叔母のルイーズ・ギバルの肖像である。(デッサンはルイーズの息子ロベールの所蔵だったが、ロベールからナント市図書館に寄贈された)

ナント市立図書館蔵 ms 3341

ボカージュ通りで、ヴァシェは二つの大きな出会いをする。彼は若い看護婦ジャンヌ・デリアンと仲良くなり、前線に戻った後に彼女と文通をする。手紙の中で、ヴァシェは文章とデッサンによって彼の日常を語っている。.
ナントでヴァシェはパリから来た若い二人の看護兵、アンドレ・ブルトンとテオドール・フランケルと知り合う。この二人は高校時代の友人でボカージュ通りで再会したのだ。当時無名だった彼らは、文学に情熱を抱き、執筆をしていた。ブルトンは最初のテクスト、主に詩をすでにいくつか発表していた。

テオド-ル・フランケルとアンドレ・ブルトン(パイプを吸っている)、ナントにて、おそらく1915年のもの。 

旧アンドレ・ブルトン・コレクション

ナントに配属中のアンドレ・ブルトンに宛てたギョーム・アポリネールの手紙。

ボカージュ通りのブルトン宛に出されたアポリネールの手紙のいくつかをヴァシェが手に取ったという仮説を立てることもできるだろう。

アポリネールとブルトンの文通はガリカ及び、 et dans le トレゾール・ド・ラ・ビブリオテック・アンドレ・ブルトンのカタログを参照のこと。.

ジャック・トリスタン・イラールのサインと1916年4月9日の日付のある肖像画。

この日付けから考えて、ブルトンが所蔵していたこのグアッシュ画は、おそらくヴァシェがナント滞在の終わりにブルトンに贈ったものである。

個人蔵 ((旧アンドレ・ブルトン・コレクション))

「侮蔑的告白」の中で、ブルトンはヴァシェとの出会いとナントで過ごした時期のことを詳細に伝えたが、「燃えるような衝突」の日付が誤っている。

C’est à Nantes, où, au début de 1916, j’étais mobilisé comme interne provisoire au centre de neurologie, que je fis la connaissance de Jacques Vaché. Il se trouvait alors en traitement à l’hôpital de la rue du Boccage pour une blessure au mollet. D’un an plus âgé que moi, c’était un jeune homme aux cheveux roux, très élégant, qui avait suivi les cours de M. Luc-Olivier Merson à l’école des Beaux-Arts. Obligé de garder le lit, il s’occupait à dessiner et peindre des séries de cartes postales pour lesquelles il inventait des légendes singulières. La mode masculine faisait presque tous les frais de son imagination. Il aimait ces figures glabres, ces attitudes hiératiques qu’on observe dans les bars. Chaque matin, il passait bien une heure à disposer une ou deux photographies, des godets, quelques violettes, sur une petite table à dessus de dentelle, à portée de sa main. […] Jacques Vaché, à peine sorti de l’hôpital, s’était fait embaucher comme débardeur et déchargeait le charbon de la Loire. Il passait l’après-midi dans les bouges du port. Le soir, de café en café, de cinéma en cinéma, il dépensait beaucoup plus que de raison,

se créant une atmosphère à la fois dramatique et pleine d’entrain, à coup de mensonges qui ne le gênait guère. Je dois dire qu’il ne partageait pas mes enthousiasmes et que longtemps je suis resté pour lui le « pohète », quelqu’un à qui la leçon de l’époque n’a pas assez profité. Dans les rues de Nantes, il se promenait parfois en uniforme de lieutenant de hussard, d’aviateur, de médecin. Il arrivait qu’en vous croisant il ne semblât pas vous reconnaître et qu’il continuât son chemin sans se retourner. Vaché ne tendait la main pour dire bonjour, ni pour dire au revoir. Il habitait place du Beffroi une jolie chambre, en compagnie d’une jeune femme dont je n’ai jamais su que le prénom : Louise, et que, pour me recevoir, il obligeait à se tenir des heures immobile et silencieuse dans un coin. À cinq heures, elle servait le thé, et, pour tout remerciement, il lui baisait la main. À l’en croire, il n’avait avec elle aucun rapport sexuel et se contentait de dormir près d’elle, dans le même lit. C’était d’ailleurs, assurait-il, toujours ainsi qu’il procédait.

André Breton, La confession dédaigneuse, in Les pas perdus, 1924.

1972年、フィリップ・オドワンはブルトンがナントでの日々について語った逸話を報告している。ヴァシェと一緒に、「彼らは〈もったいぶった〉態度の、ナントの公認画家を攻撃しようと決めた。彼らは新聞に「某画家は自分がドイツ生まれで、本名が……(ここにドイツ名が入った)であることをきっぱり否定していた」とする公告を入れた。すでに1965年にミシェル・サヌイエはこの逸話を報告しているが、ブルトンとフランケルしかそこには出てこない。三人の連座は最もありうることで、フィリップ・オドワンが言及した記事は実際1916年2月4日に「ポピュレール」誌に掲載された。それはナントのサンボリスト、エドガー・マクサンスを標的にしていたが、朝に発表されたぺてんは夕刊には暴かれた。アラン&オデット・ヴィルモーはこのエピソードを直接引き合いには出さないが、次のように書いている。「新しい友人たちと、ヴァシェはかつてナントの同級生たちと使ったのと同じ言語、同じいたずらを進んで行使した〔……〕新入りを受け入れてやるかのように」。

回復したヴァシェは、ブルトンと共にバーや映画館に通う。新たに友人になった二人は、映画シリーズ、とりわけミュジドラの「吸血鬼」に夢中だった。この熱狂のこだまは、その後の二人の文通にも表れる。最初のブルトン宛の手紙で、ヴァシェは「僕は確かに少し〈阿片〉を吸っていて、あの〈女王陛下に使える〉将校は翼の生えた両性具有者に姿を変え、吸血鬼のダンスを踊る」と書いている。映画体験を語る物語の中で、ブルトンはフランケルについて一度も言及していない。フランケルはその時代に書いた日記帳に二人の友人たちが好んだこの新しい媒体に対してとても批判的であった。
Dans ses récits évoquant leur pratique cinématographique, jamais Breton ne mentionne Fraenkel, qui dans ses carnets intimes contemporains, se montre en effet très critique envers le nouveau médium apprécié par ses deux camarades. Encore en 1951 dans son texte Comme dans un bois, Breton raconte
Je m’entendais très spécialement avec Jacques Vaché pour n’apprécier rien tant que l’irruption dans une salle où l’on donnait ce que l’on donnait, où l’on en était n’importe où et d’où nous sortions à la première approche d’ennui – de satiété – pour nous porter précipitamment vers une autre salle où nous nous comportions de même, et ainsi de suite. […] Quelques heures du dimanche suffisaient à épuiser ce qui s’offrait à Nantes : l’important est qu’on sortait de là « chargé » pour quelques jours, sans qu’entre nous il y eût là rien de délibéré, les jugements qualitatifs étaient bannis. Il advenait, toutefois, à certaines bandes « comiques » de fixer notre attention ; c’étaient, comme de 

juste, les Mack Sennet, les premiers « Charlot », certains Picratt. Je me souviens d’avoir mis hors pair à cette époque une Diana la charmeuse […]. Tout ce que nous pouvions accorder de fidélité allait aux films à épisodes déjà si décriés (Les Mystères de New York, Le Masque aux dents blanches, Les Vampires) […]. Nous ne voyions alors dans le cinéma, quel qu’il fût, que substance lyrique exigeant d’être brassée en masse et au hasard. Je crois que ce que nous mettions au plus haut en lui, au point de nous désintéresser de tout le reste, c’était son pouvoir de dépaysement.

André Breton, Comme dans un bois, in L'âge du cinéma, août-novembre 1951.

4月に軍隊に復帰したヴァシェは、ブルトン及びフランケルと文通によって交際を続ける。戦争中、手紙は不規則にやりとりされた。知られているのはブルトンに10通、フランケルに4通の計14通、15通目はブルトンの新しい友人ルイ・アラゴンに1918年に出された。手紙の中でヴァシェは、芸術と戦争に対抗するダンディ精神を思う存分発揮している。彼が敬意を表す権威者はジャリとその登場人物たち、ユビュとフォストロールだけだった。

ブルトンへの手紙の中で、ヴァシェはジャン・サルマンのことを《親友》として話している。ヴァシェとサルマンはアヴァンギャルドの劇場で会う。1917年、サルマンはオデオン劇場に出演しており、ヴァシェは彼に会いにそこへ行く。 1918年、サルマンはジャック・コポー率いるヴィユ・コロンビエ座のアメリカ巡業に参加する。劇団にはルイ・ジューヴェとシャルル・デュランがいた。 ポール・ヴァレリーやギヨーム・アポリネールと文通していたブルトンを通じて、ヴァシェは現代詩を注視する。彼は同時代人たちを観察する。「アポリネールがまだ生きていて、ランボーがかつて存在したというのは確かですか?僕には信じられません――僕はもうジャリのことしかほとんど見えません(それでもやはり、何をお望みですか、それでもやはり――…――ユビュ)。マリー・ローランサンがまだ生きているのは確からしい。いくつかの兆候があって、それを正当化しています――ほんとうに確かですか?――それでも、僕は彼女が大嫌いだ――そう――ほら、今晩、僕は彼女が大嫌いだ、何をお望みですか?」ヴァシェはパリの 「シック」 誌や「北=南」誌、「三つのバラ」のような地方誌など、当時のアヴァンギャルド雑誌に載った友人たちの真面目なあるいはパロディ風の作品に目を配る。

フランケル宛てのヴァシェの手紙

手紙の最初はテオドール・フランケルがやった悪ふざけについて言及している。彼はアルベール・ビロの「シック」誌の中でビロに対抗する詩を、ジャン・コクトーの名を使って発表したのだ。K出版社の1949年版のファクシミリより

「友そしてサールの」ジャン・サルマンへ献じられたヴァシェのデッサン、紅白粉を使った習作。

このデッサンはサルマンが1917年にオデオン座に出演した時に、ヴァシェとサルマンが会った証拠である。

ナント市立図書館蔵 ms 3446/11

ジャック・コポーの一座とともにアメリカ合衆国を巡業中のジャン・サルマン

前列右がサルマン、一番左パイプを吸っているのがコポー。

個人蔵

ヴァシェもまた芸術的生活に情熱を傾ける。1916年12月彼はアナーキスム系の「レ・ゾム・ドゥ・ジュール」紙における、ロダンのための嘆願書に署名する。母親及びジャンヌ・デリアンとの手紙は、コクトー、ピカソ、サティーを結集させた1917年5月の「パラード」の制作に彼がおそらく参加した証拠となる。 彼自身の言葉によれば、彼は「上演の雛形」を作ったらしい。 1917年6月、ヴァシェの休暇の折、ヴァシェとブルトンはルネ・モーベル座において、ギヨーム・アポリネールの劇「ティレジアスの乳房」の初演を見た。ブルトンはこの時のエピソードを、「侮蔑的告白」とアンドレ・パリノーによるインタビューの中で語っている。

C’est au conservatoire Renée Maubel que je retrouvai Jacques Vaché. Le premier acte venait de finir. Un officier anglais menait grand tapage à l’orchestre : ce ne pouvait être que lui. Le scandale de la représentation l’avait prodigieusement excité. Il était entré dans la salle revolver au poing et il parlait de tirer à balles sur le public. À vrai dire le « drame surréaliste » d’Apollinaire ne lui plaisait pas. Il jugeait l’œuvre trop littéraire et blâmait fort le procédé des costumes.

André Breton, La confession dédaigneuse, in Les pas perdus, 1924.

La pièce avait commencé avec un retard de presque deux heures sur l’horaire. Assez décevante par elle-même, elle était en outre médiocrement interprétée et les spectateurs, déjà énervés par 

l’attente, avaient accueilli le premier acte par des clameurs. Une recrudescence de l’agitation en un point précis de l’orchestre ne tarda pas pour moi à s’expliquer : c’était Jacques Vaché qui venait d’entrer, en uniforme d’officier anglais : pour se mettre au diapason, il avait dégainé son revolver et paraissait d’humeur à s’en servir. […]. Jamais comme ce soir-là je n’avais encore mesuré la profondeur du fossé qui allait séparer la nouvelle génération de celle qui la précédait. Vaché, qu’exaspéraient en l’occurrence autant le ton lyrique assez bon marché de la pièce que le ressassage cubiste des décors et costumes, Vaché en posture de défi devant le public à la fois blasé et frelaté de ces sortes de manifestations, fait, à ce moment, figure de révélateur

André Breton, Entretiens, 1952.

この二つのテクストが1917年6月24日のヴァシェの行為の神話を作ったのだとしても、最初にエピソードを公の場で語ったのはルイ・アラゴンである。彼は上演の際にはまだブルトンもヴァシェも知らなかった。それでも彼は1918年3月にこの逸話を「シック」 誌の中で簡潔に想起している。ところが翌8月、アラゴンはヴァシェから「親愛なる友にして、人を煙に巻く者よ」と始まる手紙を受け取る。アラゴンは3月に「シック」誌で、ヴァシェを「伝説的友人」と呼んでいたのだが、アラゴンがヴァシェに帰した行為への否認をここに見るべきだろうか。

ロダン擁護の嘆願書にあるヴァシェの署名

ラ・レストリはトゥレーヌのヴァシェ家の所有地の名。ヴァシェはジャン・サルマン宛ての手紙の一つに《ピエール・ジャック・ヴァシェ・ド・ラ・レス》と署名している。「レ・ゾム・ドゥ・ジュール」紙455号、1916年12月16日
ガリカ参照のこと

バレー「パラード」のプログラム

ヴァシェ所有の一冊で、死後に彼の持ち物の中に残されていた。
ライブラリー・オブ・コングレスのサイトで、ギョーム・アポリネールの記事「パラードとエスプリ・ヌーヴォー」を含むプログラムを参照のこと。

個人蔵

ブルトンとヴァシェには、次のようなたくさんの考えとプロジェクトがあった。パリで《ユムール》について講演会を開催すること。この概念はヴァシェによって、《あらゆることの演劇的で(喜びのない)無用さの感覚》と定義された。二人で戯曲を書くこと。ブルトンの第一詩集を実現させること。そこにはヴァシェがイラストをつけるはずだった。ブルトンのコレクションの一部となった幾つかの作品が示す通り、手紙に描かれたクロッキー以外にも、ヴァシェは戦時中に絵を描き続けていた。

「強迫観念あるいはソンムとその他の戦い」

ヴァシェはこのデッサンを1917年4月にブルトン。に送り、後の手紙の中でタイトルをつけているブルトンは1925年に「シュルレアリスム革命」誌の中で、 これを 「彼自身によるジャック・ヴァシェ」の題で発表した

個人蔵(旧アンドレ・ブルトン・コレクション)

「トット」

ヴァシェのこのデッサンのオリジナルは『戦争の手紙』の初版刊行以来、示されたことがない。ブルトンは「侮蔑的告白」の中で、ヴァシェがこの絵を彼に1917年6月に贈ったと記している。(旧アンドレ・ブルトン・コレクション)

「この紳士たち」

このデッサンはシリーズもので、おそらくヴァシェとブルトンの二人による戯曲の計画と関係がある。このシリーズはヴァシェの戦前の演劇に関わるデッサン群を思い出させる。 (個人蔵(旧・アンドレ・ブルトン・コレクション))

1918年3月のアラゴンに続いて、ブルトンは文通相手を文学界に登場させる準備をする。彼は 「エヴァンタイユ」誌1918年10月に載せたアポリネールについての文章の中で、ヴァシェと彼のユムールの定義を引用する。休戦の頃、ヴァシェはベルギーにおり、そこからブルトンに宛てて有名な最後の手紙を投函する。手紙はこう締めくくられる。「しばらくパリにいますか?――僕は一ヶ月後くらいにパリに行くつもりだ、是が非でも君に会いたい」。全ては、ヴァシェが戦後に自らの姿を投げかけていることを示している。それに、戦争の終結は彼の絵画制作の増大と一致している。1918年9月から12月の期間の一ダースほどのデッサンが知られている。

「燕尾服」

モードのデッサン。余白の書き込みに、ヴァシェは練り上げた衣装の材質と色を記している。ナント市立図書館蔵 ms 3341

「斬首場面」

このデッサンにはハリー・ジェイムズというサインがある。ヴァシェの有名な最後の偽名で、ブルトンへの最後の手紙のサインにも使われた。

個人蔵

「女性の顔」

1918年10月から12月の間に、ヴァシェは女性の肖像画を4枚描いているが、同じモデルかどうかは確定できない。このデッサンにもハリー・ジェイムズとサインがある。

ナント市立図書館蔵 ms 3573

パリに立ち寄ったにせよ、1919年1月の始め、ヴァシェはナントでサン=ナゼール駐屯のアメリカ軍のもとにいた。
そこで彼は数人のサールたちと高校の仲間たちと再会した。1月5日から6日にかけての夜、ラシーヌ通りのアポロ劇場で夜を過ごした後、ヴァシェと友人たちは、友人の一人ポール・ボネがグララン広場のホテル・ド・フランスにとっていた部屋に集まった。ヴァシェは阿片を持って来た。集団はこのドラッグを吸おうとしたが、適当なパイプがなかったため、口から摂取することにした。仲間の何人かは夜のうちか6日の朝に退出し、残ったのはボネ、ヴァシェ、アメリカ兵ウォイナウの三人だけだった。午後、ウォイナウが目を覚まし、ボネが死んでいることと、ヴァシェが危険な状態であることに気づいた。医者が呼ばれたが、その甲斐もなくヴァシェは死んだ。数日間、ナントの新聞はこの悲劇的死について、一貫して事故として伝えた。

阿片の悲劇(1)

「ルエスト・エクレール」紙1919年1月7日、ボネとヴァシェの死を伝える記事の最初の部分

ガリカ参照のこと

阿片の悲劇(2)

「ルエスト・エクレール」紙1919年1月7日、ボネとヴァシェの死を伝える記事の2番目の部分

ホテル・ド・フランスの悲劇、調査

「ルエスト・エクレール」紙1919年1月9日の記事

ガリカ参照のこと

ヴァシェの死はブルトンを動転させた。ブルトンは1月3日に彼の新しい友フィリップ・スーポーに宛てて次のように書いていた。「私はあなたに愛情を寄せていますが、私にとってジャック・Vが全ての中心です。あなたには奇妙に思われるでしょうね!私は彼にあなたなしには生きられないといったようなことを書きます。」ブルトンはヴァシェの死を事件から数日後に知る。 1月13日にブルトンはヴァシェにコラージュの手紙を送るが、手紙は宛先人に届くことはなく 1980年代に再発見される。ブルトンは友人の死を「愛情のトラウマ」として繰り返し想起し、1919年から1924年の彼の作品は故人への強迫観念を証明している。 このパリ・ダダの時代、ブルトンはパリにやってきたばかりのトリスタン・ツァラの人格の中に代替物を見出す。作品、とりわけ「侮蔑的告白」と「黒いユーモア選集」のヴァシェについての文章を通して、ブルトンは友人の自殺説を固めていく。

Jacques Vaché s’est suicidé à Nantes quelques temps après l’armistice. Sa mort eu ceci d’admirable qu’elle peut passer pour accidentelle. Il absorba, je crois, quarante grammes d’opium, bien que, comme on pense, il ne fût pas un fumeur inexpérimenté. En revanche, il est fort possible que ses malheureux compagnons ignoraient l’usage de la drogue et qu’il voulut en disparaissant commettre, à leurs dépens, une dernière fourberie drôle.

André Breton, La confession dédaigneuse, in Les pas perdus, 1924.

Je l’ai échappé, dit Vaché, d’assez peu – à cette dernière retraite. Mais j’objecte à être tué en temps de guerre ». Il se tuera peu après l’armistice. « Au moment de terminer cette étude, écrit M. Marc-Adolphe Guégan dans la Ligne de cœur (janvier 1927), je reçois d’une personne digne de foi une déclaration terrible.

Jacques Vaché aurait dit plusieurs heures avant le drame : « Je mourrai quand je voudrai mourir… mais alors je mourrai avec quelqu’un. Mourir seul, c’est trop ennuyeux… De préférence un de mes amis les meilleurs ». « De telles paroles, ajoute M. Guégan, rendent moins certaine, je le reconnais, l’hypothèse de la maladresse, surtout si l’on se rappelle que Jacques Vaché n’est pas mort seul. Un de ses amis fut victime du même poison, le même soir. Ils paraissaient dormir l’un à côté de l’autre quand on découvrit qu’ils n’existaient plus. Mais admettre que cette double mort dut la conséquence d’un projet sinistre, c’est rendre affreusement responsable une mémoire ». Provoquer la dénonciation de cette « affreuse responsabilité » fut, à coup sûr, la suprême ambition de Jacques Vaché.

André Breton, Jacques Vaché, in Anthologie de l'humour noir, 1940.

1919年7月に、ブルトンは自分とフランケルとアラゴンがヴァシェから受け取った手紙を「リテラチュール」誌に発表する決心をする。さらに9月に、ブルトンはこれらの手紙を一冊にまとめ、序文を書き、 『戦争の手紙』という題をつけた。アヴァンギャルドたちの文学のパンテオンにヴァシェが入るように取り計らったのだ。ヴァシェはハリー・ジェイムズの偽名のもと、そこで中央の位置を占める。1970年代の終わりのインタビューで、フィリップ・スーポーは第一次世界大戦への反応としてのダダの出現について語りながら、ヴァシェという人物の重要性を想起させた。
1919年5月から6月、ブルトンとフィリップ・スーポーは自動記述法を使って最初のシュルレアリスム的テクストを書いた。作品は『磁場』という題で1920年5月に出版され、意味深くもヴァシェに捧げられた。作品を通して、ブルトンは死んだ友人の聖人伝を組み立てる。彼に関して、ブルトンは1924年の『シュルレアリスム宣言』の中で、あの有名な一文「ヴァシェは私の中でシュルレアリストだ」を書く。ブルトンはすぐに『戦争の手紙』の作者をシュルレアリスムにとって参照すべき人物とした。ヴァシェに会ったことがないまま、彼に追随したグループのメンバーは数多い。とりわけ、ジャック・バロン、ロベール・デスノス、ミシェル・レリス、ポール・ヌージェ、ルイ・スキュトネール、さらに1945年以降にはクロード・タルノーとスタニスラス・ロダンスキーがそうである。その頃、レトリスムやシチュアシオニスムといった他の運動がアヴァンギャルドの分野でシュルレアリスムと競合していた。一方にはイジドール・イズーとガブリエル・ポムランがおり、もう一方にはギー=エルネスト・ドゥボールとラオル・ヴァネーゲムがおり、それぞれの作品にヴァシェの姿を映し出していた。こうしてそれぞれがヴァシェを自分のものにするにつれ、『戦争の手紙』の作者は異議申し立ての守護的人物となった。

ロベール・デスノス、「I.N.R.I.(一つの笑い)」

左上のメダルの中で、デスノスはパイプとカードを結びつけることで、ヴァシェの死を想起させる。これは、友人の自殺、「最後のおかしな悪巧み」というブルトンの仮説を象徴している。

キャンバスに油彩 
ジャック・ドゥーセ文芸図書館蔵

ポール・ヌージェ、「J・ヴァシェ」

「シュルレアリスム革命」誌(1927年10月9号-10号)に掲載されたパロディ記事。連続殺人犯ジョゼフ・ヴァシェについてのレミ・グールモンの記事を流用。
ガリカを参照のこと(テクストには当時未発表だったヴァシェの二枚のデッサンが添えられている)

ナント市立図書館蔵(旧アンドレ・ブルトン・コレクション)

ルイ・スキュトネール、「まぜこぜ」

このコラージュの中で、スキュトネールはブルトンが「彼自身によるヴァシェ」の題で「シュルレアリスム革命」誌に発表したヴァシェのデッサンの模写を挿入している。このコラージュは1934年に雑誌「ドキュマン」のシュルレアリスム特集号に掲載された。

文学資料博物館蔵、ブリュッセル.

スタニスラス・ロダンスキー、「ジャック・ヴァシェの想像的肖像」

1947年と1948年にシュルレアリスム・メンバーだったロダンスキーは、ヴィルジュイフの精神病院にいた時にこのデッサンを描いた。彼は当時知られていたヴァシェの二枚の肖像写真を組み合わせた。ロダンスキーの文学作品は『戦争の手紙』の作者への自己同一化を表している。

ポール・ギロー病院グループのアルシーブ蔵、ヴィルジュイフ

ガブリエル・ポムラン、「重要な三人の自殺者」

1948年6月に「プシュケ」誌に掲載されたリテリスト、ガブリエル・ポムランの記事

ギー=エルネスト・ドゥボール、「心理地理の練習」

インターナショナル・レトリストの雑誌「ポトラッチ」(未来のシチュアシオニストたちの機関紙)に発表されたこの記事は、ブルトンが「シュルレアリスム第一宣言」で作り上げた有名なリスト「~においてシュルレアリストだ」のパロディである。

トマ・ギユマン(フランス語原文)
後藤美和子(日本語訳)

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